『自由酒場』ジヨルジユ・シメノン、伊東鋭太郎・訳(サイレン社『倫敦から來た男』所収)

日本で出版されたメグレ警視シリーズの中で、最も入手困難と言われている本。昭和11年に刊行されて、なぜか同じ年にアドア社から出し直された(書名は『倫敦から來た男・自由酒場』らしい)が、戦後は一度も再刊されていない。『倫敦から來た男』だけは戦後間もなく再刊されている。
江戸川乱歩が序文を書いていて、表題作の『倫敦から來た男』を絶賛している。メグレものでは、『男の頭』(男の首)と『聖フオリアン寺院の首吊男』を誉めているが、『自由酒場』については一言も触れていない。


序盤のあらすじ

カンヌに近い観光地アンチーブで、ブラウンという男が殺された。ブラウンは戦時中、フランスの情報局に勤めていて、事件の背後に国際的な陰謀が隠れているのではないかと、新聞が騒ぎ立てていた。パリから派遣されたメーグレは、被害者に近しい人間たちから調べて行き、やがて被害者がよく通っていた「自由酒場」にたどり着く……。


メグレ警視シリーズ自体がそもそも、最近の売れてるミステリ小説はもちろん、同時代の人気作家と比べても、非常に地味な作風なわけだが(そこが良いのだけれど)、これは魅力的な謎とか意外な展開とかがほとんど無くて、今復刊したとしてもシリーズのファン以外にも売るのは難しいだろうなという気がする。
名作、傑作なら「幻の名作!」と言って売る手もあるが、これはせいぜい佳作といったところ。シリーズの中では平均点レベルではあるので、ファンなら(あまり期待しなければ)読んで失望はしないだろう。


大ざっぱに分けて、メグレ警視シリーズには、善玉と悪玉との対決を描いて一応エンターテインメントの形をとっている話と、不幸な被害者または不幸な加害者を描いて人生の悲哀を感じさせるものとがあるが、これは後のほう。犯人も被害者も、悪人というわけではないのに(善人でもないが)気持ちのすれ違いが悲劇を生む。その、調書からは読み取れない「気持ち」をメグレが理解することで、わずかながら救いになっている。


私にとっては、初期作品にしては珍しくかなり笑えたのが、特に良かった。
例えば、以下はメグレが「曖昧ホテル」から重要参考人である娼婦が出てくるのを待っている場面。(旧漢字は新字に改めた)

彼は、ホテルの前では待たない。前の麺麭屋の主婦が皮肉さうな眼付で、ガラス窓から見てゐたから……
 多分、シルヴイには客が沢山あつて、一人が下で待つてゐることなど、よくあるのだらう。メーグレは、自分が淫売のお客だと思はれて、癪に触つた。(270p.)

このあと、出てきた娼婦を捕まえた場面が、さらに笑える。
この場面に限らず、今回のメグレはやけに他人の目を意識していて、どっしりと構えている感じのいつものメグレと比べて小物っぽい。


あと、この作品には、見過ごせない欠点がある。それは被害者が元情報部員という設定なのに、それが事件と全く関係ないことである。メグレにしてからが、それについて何も調べようとしない。被害者の経歴が徐々に明らかになっていくが、いつ、どうして、オーストラリア出身の被害者がフランス情報部に勤めることになって、何をやっていたのか、さっぱりわからない。
では何故そんな設定にしたのかというと、事件の決着の付け方にかなり無理があって、それを正当化するために、何か事件の背後に深い闇がひかえていると世間に思われている必要があるからだろう。そこらへん、ストーリーの必然というより、作者の都合が透けて見えるのが、ちょっと気になる。