『自由酒場』ジヨルジユ・シメノン、伊東鋭太郎・訳(サイレン社『倫敦から來た男』所収)

日本で出版されたメグレ警視シリーズの中で、最も入手困難と言われている本。昭和11年に刊行されて、なぜか同じ年にアドア社から出し直された(書名は『倫敦から來た男・自由酒場』らしい)が、戦後は一度も再刊されていない。『倫敦から來た男』だけは戦後間もなく再刊されている。
江戸川乱歩が序文を書いていて、表題作の『倫敦から來た男』を絶賛している。メグレものでは、『男の頭』(男の首)と『聖フオリアン寺院の首吊男』を誉めているが、『自由酒場』については一言も触れていない。


序盤のあらすじ

カンヌに近い観光地アンチーブで、ブラウンという男が殺された。ブラウンは戦時中、フランスの情報局に勤めていて、事件の背後に国際的な陰謀が隠れているのではないかと、新聞が騒ぎ立てていた。パリから派遣されたメーグレは、被害者に近しい人間たちから調べて行き、やがて被害者がよく通っていた「自由酒場」にたどり着く……。


メグレ警視シリーズ自体がそもそも、最近の売れてるミステリ小説はもちろん、同時代の人気作家と比べても、非常に地味な作風なわけだが(そこが良いのだけれど)、これは魅力的な謎とか意外な展開とかがほとんど無くて、今復刊したとしてもシリーズのファン以外にも売るのは難しいだろうなという気がする。
名作、傑作なら「幻の名作!」と言って売る手もあるが、これはせいぜい佳作といったところ。シリーズの中では平均点レベルではあるので、ファンなら(あまり期待しなければ)読んで失望はしないだろう。


大ざっぱに分けて、メグレ警視シリーズには、善玉と悪玉との対決を描いて一応エンターテインメントの形をとっている話と、不幸な被害者または不幸な加害者を描いて人生の悲哀を感じさせるものとがあるが、これは後のほう。犯人も被害者も、悪人というわけではないのに(善人でもないが)気持ちのすれ違いが悲劇を生む。その、調書からは読み取れない「気持ち」をメグレが理解することで、わずかながら救いになっている。


私にとっては、初期作品にしては珍しくかなり笑えたのが、特に良かった。
例えば、以下はメグレが「曖昧ホテル」から重要参考人である娼婦が出てくるのを待っている場面。(旧漢字は新字に改めた)

彼は、ホテルの前では待たない。前の麺麭屋の主婦が皮肉さうな眼付で、ガラス窓から見てゐたから……
 多分、シルヴイには客が沢山あつて、一人が下で待つてゐることなど、よくあるのだらう。メーグレは、自分が淫売のお客だと思はれて、癪に触つた。(270p.)

このあと、出てきた娼婦を捕まえた場面が、さらに笑える。
この場面に限らず、今回のメグレはやけに他人の目を意識していて、どっしりと構えている感じのいつものメグレと比べて小物っぽい。


あと、この作品には、見過ごせない欠点がある。それは被害者が元情報部員という設定なのに、それが事件と全く関係ないことである。メグレにしてからが、それについて何も調べようとしない。被害者の経歴が徐々に明らかになっていくが、いつ、どうして、オーストラリア出身の被害者がフランス情報部に勤めることになって、何をやっていたのか、さっぱりわからない。
では何故そんな設定にしたのかというと、事件の決着の付け方にかなり無理があって、それを正当化するために、何か事件の背後に深い闇がひかえていると世間に思われている必要があるからだろう。そこらへん、ストーリーの必然というより、作者の都合が透けて見えるのが、ちょっと気になる。

ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』の新旧の翻訳を比較してみて、気になったところ(その3)

最後のユニコーン (ハヤカワ文庫 FT 11)

最後のユニコーン (ハヤカワ文庫 FT 11)

訳文がかなり違うところの中でも、特に見過ごせないところ

金原訳と比べてみたら、鏡訳はけっこう誤訳があったことに気づいたが、たいていの人は、そのほとんどは特に変だとは思わずに読み過ごしていたのじゃないかな(私はそう)。
前回取り上げた訳文がかなり違うところのうち、ストーリーの流れからしてこれは金原訳のほうでなければいけない、と私が思うのは以下の3ヶ所。


[ハ] 「ぼくたちの間に鉄格子があったときと、まるでちがう。あなたは小さくみえるし、とてもユニコーンには―ああ、何てことだ」 (66P.)
[学] 「檻がなくなると、違うものだね。いまのほうがずっと大きく見える。それに―ああ、すばらしい」 (57p.)
*鏡訳だと、シュメンドリックが、ユニコーンと馬の区別もつかない一般人と大して変わらなくなってしまう。


[ハ] でも、自分の牢獄として、他のいかなるものよりも、この姿を選びたいと思います。 (192―193p.)
[学] けれど、自分で選ぶことができたなら、わたしはこの姿だけは選ばなかった。 (162p.)
*金原訳のほうがヒロインの(主観的な)転落の幅が大きくて、ドラマチックで良い。


[ハ] わたしたちは、赤い牡牛がこわかった。いったい、何ができたというのですか?」
「その問いには、一言で十分だろう」リーア王が答えた。「今となっては、おまえたちには決してわからぬことだ」 (359−360p.)
[学] あたしたちは赤い雄牛が怖くてたまらなかった。いったい、なにができたっていうんです?」
「ひとこと発するだけでも違っていたかもしれないではないか」リーア王はいった。「いまとなっては確かめようもないが」 (299p.)
*鏡訳だと、リーア王にとっては他人事のような感じ。金原訳では、巨大な悪に苦しめられてる者たちがいることを知りながら、自分たちさえ良ければと見て見ぬふりをしてやり過ごそうとした人々への、怒りが感じられる。『最後のユニコーン』は、それが書かれた時代を反映している、というふうに評されることがあるが(鏡明金原瑞人もそんなことを言っていた)、ここは金原訳のほうが60年代っぽい気がする。

おおよその意味は同じだがニュアンスの違うところ


[ハ] ユニコーンは、たったひとりで、ライラックの森に住んでいた。 (7p.)
[学] そのユニコーンライラックの森に住んでいた。雌で、仲間はなく、ひとりで暮らしていた。 (7p.)
・The unicorn lived in a lilac wood, and she lived all alone.


[ハ] 若い娘たちに、気を引かれるんじゃないぞ。彼女たちの成れの果ては、おろかな老女となるに決まっているのだから。 (12p.)
[学] 若い娘たちなんか相手にするな。いずれはおろかな老女になるだけだ。(11p.)


[ハ] 彼女の喜んだ鼻息で、蝶は二十フィートほども吹き飛ばされてしまった。 (23p.)
[学] 興奮して息が荒くなったせいで、蝶を何メートルも先に吹きとばしてしまった。 (21p.)
*原文はfeet。金原訳では、長さは全てメートル表記。


[ハ] ルクが、最後の言葉を生パンのように、ねっとり引き伸ばし、こね回したので、聴いていた人々は、用心しいしい笑った。 (38p.)
[学] わざとらしくもったいをつけたしゃべりかたで、説明を終えた。村人たちは控えめに笑った。 (学33p.)
・He rolled and stretched the last word like dough, and his hearers laughed carefully.


[ハ] 「ああ、真青だ」魔術師はぼそぼそと言った。けれどもユニコーンには、かれが顔を赤らめているのが感じとれた。 (65p.)
[学] 「くそっ」シュメンドリックはつぶやいたが、ユニコーンには、彼がまっ赤になっているのがわかった。 (学57p.)
・”Ah, turn blue,” the magician mumbled, but the unicorn could feel him blushing.


[ハ] 魔術師の表情は、あやうく逃げ出してしまうところだった。けれども、かれはそれをおさえつけ、とてもゆっくりと微笑みはじめた。 (75p.)
[学] 魔術師の顔がうつろになった。が、彼はなんとか表情をとりもどし、笑みをうかべようとした。 (65p.)
・The magician’s face almost got away, but he caught it and began to smile very slowly,


[ハ] いつかおまえも練習が必要になる。収集の対象にされたときにはな (109p.)
[学] おまえもそのうち稽古が必要になるぞ。おまえの演奏が野外録音されるかもしれんからな (93p.)
・You’ll need the practice one day, when you’re field-recorded.


[ハ]まるで自分が見捨てられたサナギのように思えた。(ハ122p.)
[学]蛹の殻になったような気分だった。(学104p.)
・He felt like an abandoned chrysalis.


[ハ] 城は崖の端に位置していた。まるで、緑と黒い岩の上にすりきれたままむき出しで置かれた細い黄色の岸辺に落ちてきたナイフの刃のようだ。 (198p.)
[学] 城は崖の縁ぎりぎりに立っている。崖はナイフのように切りたって、その足元は幅の狭い黄色の海岸になっている。緑と黒の岩にこすられてすり減ったかのような海岸線だ。 (167p.)
*鏡訳には、一度読んだだけではわかりにくい変な文章がたまにある。


[ハ] かれの微笑みは、期待に満ちた小犬のように、かれらの足元にまとわりついてきた。(206p.)
[学] その笑顔は、遊んで遊んでと足元で尻尾を振っている子犬のようだ。 (174p.)


[ハ] ぼくは勇敢であることも、十分に好きだけれども、もしもおまえが、そうした方が良いと考えているなら、もう一度、でれついた臆病者になるよ。 (227p.)
[学] 勇敢な男になるのも嫌いじゃないが、怠け好きの臆病者にもどったほうがいいとおまえが思うなら、そうする。 (191p.)
*鏡訳のほうが、金原訳のよりも普段のリーア王子がボンクラな感じ。


[ハ] その途端―ああ、その途端、ぼくが話している間にあの女(ひと)はどこへ行っていたのか知らないけれども、そこからあの女は我に返った。 (228p.)
[学] それまで上の空だった姫が突然我にかえって、 (192p.)
・Then―ah, then she came back from wherever she goes when I talk to her,


[ハ] 猫ってものは、雄々しい馬鹿の価値を認めるに、やぶさかではないんだ (250p.)
[学] 猫は、勇敢な愚行ってものを賞賛する心を持っているんだぜ (210p.)


[ハ] そのとき、谷間の奥で、鎧が光った。 (278p.)
[学] そのとき、鎧が深い谷底で目配せした。 (232p.)
・Then armor winked deep in the valley,


[ハ] たとえ、あんたが牡牛を、食用ガエルに変えてしまったとしても。 (324―325p.)
[学] たとえ赤い雄牛をウシガエルに変えようともね。 (270p.)
・even if you change the Bull into a bullfrog,


[ハ] シュメンドリックは、自分の眼の前にリーア王子の姿を思い浮かべることなく、最も簡単な魔法すら使うことはできなかった。その目は、光のためにやぶにらみになり、舌を突き出すのだった。 (331p.)
[学] シュメンドリックは、どんなに小さな魔法を操るときも、このときのリーア王子の顔―まぶしそうな目と、口からのぞいた舌先―を思い出さずにはいられなかった。 (275p.)
・he was never able to work the smallest magic without seeing Prince Lir before him, his eyes squinted up because of the britness and his tongue sticking out.
*never〜without …ingの訳としては、金原訳のほうが模範解答かもしれないが、鏡訳のほうが感動的な気がする。


[ハ] アマルシア姫は、しばらくの間、自分自身にしがみついていた。 (333p.)
[学] アマルシア姫はその場に一瞬とどまった。 (276p.)
・ Lady Amalthea clung to herself for a moment more.
*鏡訳のほうが必死な感じ。


[ハ] 牡牛は、再び、そのおどすような、踊るような前進をはじめた。けれども、ユニコーンが、それに対して払った注意からすれば、牡牛はあたかも求愛の踊りをしている鳥のようなものであった。 (338―339p.)
[学] 踊るような動きでじわじわと前進する。その動きは求愛のダンスをする鳥のようだった。ただし、相手のユニコーンはろくに関心を払っていない。 (281p.)


[ハ] 「ごめんなさい、ごめんなさい」 (369p.)
[学] 「ごめん。ごめん」 (307p.)
*金原訳は、シュメンドリックとモリーの、ユニコーンやリーア王子と話すときの口調がちょっと気になった。




*全体に、どちらかと言うと鏡訳のほうがドラマチックというか、芝居がかったような言い回しを使う。金原訳のほうが普通の日本語の言い回しに近い感じ。
#私は『最後のユニコーン』のことをずっと、泣かせると同時にかなり笑える小説だと思っていたが、金原訳のほうが原文に忠実なのだとすると、鏡訳では笑えるところを増幅していたのかな。私としては、鏡訳のほうが好み。

ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』の新旧の翻訳を比較してみて、気になったところ(その2)

完全版 最後のユニコーン

完全版 最後のユニコーン

 

訳文がかなり違うところ

当然ながら、金原訳のほうが正しいことが多いようだ(全部が、ではない)。


[ハ] ああ、このすべてを置き去りにするなんて、できやしない。わたしが本当に、世界でただひとりのユニコーンではないのなら、そんなことは、できやしない。 (13p.)
[学] この森を離れるなんて、とてもできない。本当に、わたしがこの世で唯一のユニコーンになってしまったのだとしても、ここから出ることなどできはしない。 (12p.)
・Oh, I could never leave this, I never could, not if I really were the only unicorn in the world.


[ハ] 草にさわることができないから、犬や猿をつかって目眩ましをやるのさ。でも、そのちがいはわかってる。 (52p.)
[学] 犬や猿を怪獣にみせかけてごまかしているのは、本物の怪獣に変えてしまうことができないからだけど、違いはちゃんとわかってる。 (45p.)
・I play tricks with dogs and monkeys because I cannot touch the grass, but I know the difference.
*touch the grass って何だろ。


[ハ] 「ぼくたちの間に鉄格子があったときと、まるでちがう。あなたは小さくみえるし、とてもユニコーンには―ああ、何てことだ」 (66P.)
[学] 「檻がなくなると、違うものだね。いまのほうがずっと大きく見える。それに―ああ、すばらしい」 (57p.)
・“It was different when there were bars between us. You looked smaller, and not as oh. Oh my.”


[ハ] あなたを、真の魔術師に変えることは、わたしにはできません」
「そうは思えません」 (80p.)
[学] あなたを本物の魔術師にすることはできないんです」
「そうか、期待してたのにな」 (70p.)
・I cannot turn you into a true magician.”
“I didn’t think so”


[ハ] 「何てことだ、おれは井の中の蛙、いや草の中のひなどりだったかもしれない」 (81p.)
[学] 「わおっ、丸焼き料理になっちまいそうなくらい、びっくりだ」 (70p.)
・“Well, I’ll be a squab under glass,”


[ハ] わたしたちは、ここで素晴らしい生活を送っている。もしもそうでなかったとしても、わたしはそのことにまったく気がつかないだろう。 (87p.)
[学] この町の人々は豊かな暮らしを送っておる。ここの暮らしを貧しいというなら、どういう暮らしが豊かなのか見当もつかんね。 (75p.)
・We do lead a good life here, or if we don’t, I don’t know anything about it.


[ハ] 遠くでカラスが一度だけ鳴いた。その鳴き声は、夕焼けの中を、一本のわらしべのようにただよっていった。 (87p.)
[学] 遠くの空でカラスが鳴いた。その鳴き声は、一片の燃え殻から立ち上る煙のように、夕暮れの空に響きわたった。 (76p.)
・A crow called once, far away, and his cry drifted through the sunset like a single cinder.
*金原訳のほうが正しいのかもしれないが、鏡訳のほうが面白い。


[ハ] 「よろしい。帽子よ、汝の頭に来れ」 (92p.)
[学] 「いいだろう。おまえの身になにがふりかかっても知らないぞ」 (80p.)
・“Very well. On your head be it.”
ダブルミーニング


[ハ] だが、友人としてわたしを求める者は、良き友を得ることになる。して、あなたは、どちらかな?」
「誓って」 (101p.)
[学] だが、我輩を慕ってくる者は、我輩の友となる。貴殿はいかにしてここへ?」
「馬の上に腹ばいで」 (87p.)
・but he who seeks me as a frind may find me friend enow. How do you come here, sir?”
“On my stomach,”


[ハ] 食いねえ、飲みねえ (102p.)
[学] さ、タコスを食べな (88p.)
・Have a taco.


[ハ] 手を離すんじゃねえぞ、キャプテン―やつはおいらたちのためにならねえ (118p.)
[学] キャプテン、そのくらいにしておけよ。死んじまったらなんの役にも立たねえぜ(101p.)
・Hold your hand, captain―he’s no good to us dead.


[ハ] 一月ばかりは、おれたちは、ひまをもてあます紳士ということになるだろうよ (120p.)
[学] ひと月もしないうちに、おれたちゃ悠々自適の身分になれるかもしれねえぜ (102p.)
・Happen we’ll all be gentlemen of leisure in a month’s time.


[ハ] 「今は、ここにいます」 (127p.)
[学] 「いまもどってきました」 (108p.)
・“I am here now,”
*文脈からいっても、「もどってきました」は違う気がする。


[ハ] わたしの父を満足させたのでもなければ、ぼくを満足させたんでもない。あれはユニコーンのためのものだったのさ (136p.)
[学] 父はきみに満足していない、それをいうなら、父はぼくにも満足していない。父を満足させるにはユニコーンが必要だ (115p.)
・You don’t satisfy my father, but then neither do I. That would take a unicorn.


[ハ] ハガードと結婚するかもしれぬ女たちも、いや、ハガード自身でさえ、それを否定するでしょう。 (162p.)
[学] ハガードと結婚してもいいと思うような女などいませんよ。いたとしたら、ハガードでさえ敬遠したくなるような女でしょう。 (137p.)
・Any women that would marry Haggard, even Haggard would refuse.


[ハ] ユニコーンは棹立ちになり、身を翻し、別の方向へ飛び出した。けれども、そこでまた牡牛とぶつかるだけだった。牡牛の頭は低く下げられ、顎からは、雷鳴のようなうなり声がもれていた。再び、ユニコーンは向きを変え、また変えた。 (178p.)
[学] ユニコーンは後ろ足で立ち、体の向きを変えて跳ねとんだ。しかしその先にも赤い雄牛が待っている。ユニコーンは頭を下げ、あごからは雷鳴のような音をもらしながら何度も何度も向きを変えた。 (150p.)
・She reared, swerved, and sprang away in another direction, only to meet the Bull there, his head lowered and his jaws drooling thunder. Again she turened, and again,


[ハ] でも、自分の牢獄として、他のいかなるものよりも、この姿を選びたいと思います。 (192―193p.)
[学] けれど、自分で選ぶことができたなら、わたしはこの姿だけは選ばなかった。 (162p.)
・But I would have chosen any other than this for my prison.


[ハ] 手首そのものは、若いアザラシのように、優美につくられていた。 (192p.)
[学] 手首そのものは、若いカワウソみたいに生き生きと作られていた。 (162p.)
・her wrists, themselves as gaily made as young otters.


[ハ] 彼女は、宝石のようにじっとかれを見返していた。ユニコーンたちが人間を見る以上には、本当にはかれを見てはいなかったのだが、 (206p.)
[学] 姫もまた、宝石のような沈黙を守りつつ、王子をみつめかえした。人間にユニコーンの本当の姿がみえないように、彼女にも王子の本当の姿はみえていない。 (174p.)
・She looked back at him, silent as a jewel, seeing him no more truly than men see unicorns.


[ハ] ぼくは四つの川を泳いだ。そのいずれもが、水はあふれ、幅百マイル以下のものはなかった。 (225p.)
[学] 四つの川を泳ぎきった。どの川も水量はあふれんばかり、川幅は二キロ近くあった。(190p.)
・I have swum four rivers, each in full flood and none less than a mile wide.


[ハ] 御立派な野菜 (230p.)
[学] しなびた野菜 (194p.)
・the venerable vegetables
*実際には「しなびた野菜」なのを、あえて(皮肉で)「御立派な」と形容してるのだろう。


[ハ] この姿でか、あるいは自分自身の姿で、かれとまた顔をつきあわせねばならないのです。 (238p.)
[学] いままでなら、考えもしなかったことですが、わたしは雄牛と対決せねばならないのです。 (201p.)
・In this form or my own, I must face him again,


[ハ] 「おいらは、もう長い間、しゃべりたいと思っていたのかもしれない」 (248p.)
[学] 「長々とおしゃべりしてる気はない」 (209p.)
・“I doubt that I will feel like talking for very long,”


[ハ] 「奇跡の奇って、何偏だったかしら?」
「車偏だ」かれは疲れきったように言った。「軌跡と同じ語源から来た言葉だよ」 (256―257p.)
[学] 「奇跡って単語には、rがいくつあったっけ?」
「ふたつだろ」シュメンドリックは面倒くさそうに答えた。「鏡(mirror)と語源が同じだから」 (215p.)
・“how many rs in ‘miracle’?”
“Two,” he answered wearily. “It has the same root as ‘mirror’.”


[ハ] グリフィンやキメラを抱きとめるためにおそわったとおりに、しっかりと見つめながら、身動きせずに彼女を抱いていた。 (263p.)
[学] 王子はグリフィンやキメラをみつめて、その動きを封じることができるようになっていたが、その目で姫をとらえた。 (220p.)
・he held her, as he had learned to hold griffins and chimeras motionless with his steady gaze.
* ハヤカワ文庫の328p.の時点でもまだ手もふれてないというのだから、このとき抱いたはずはない。


[ハ] ハガードの首切り役人の隊長だったのだ。何の理由もなく、王が、おれの首を打ち落とすまでは。それが、自分が本当にやりたいことかどうか、確かめようとするほどに、王が邪悪であった頃のことだ。それは、王の望んでいたことではなかった。 (293p.)
[学] 昔はハガードの側近だった。だがある日、なんの理由もなく、王に首をはねられた。それは王が、自分のやりたいことが邪悪なのかどうかを確かめるために邪悪になっていた頃だった。そうではないということがわかったが、 (245p.)
・I was Haggard’s chief henchman once, until he smote off my head for no reason. That was back in the days when he was being wicked to see if that was what he really liked to do. It wasn’t,


[ハ] 「これなら、大丈夫よ」モリーは大きな声で言った。「まったく新しいものを造り出さなきゃならないってことじゃないわ。あんたに、そんなこと、頼んだりしない」 (296p.)
[学] 「だって、前にもやったことがあるじゃない」モリーは大きな声でいった。「無からなにかを作れなんて、そんな無茶はいわないよ」 (247p.)
・“Well, it’s been done,” she said loudly. “It’s not as though you’d have to make up something new . I’d never ask that of you.”
*このセリフのあとのモリーの動作が、「前にやったこと」を示しているのだろう。


[ハ] 「その問いには、一言で十分だろう」 (359p.)
[学] 「ひとこと発するだけでも違っていたかもしれないではないか」 (299p.)
・“One word might have been enough,”

ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』の新旧の翻訳を比較してみて気になったところ(その1)

Ballantine1969&ROC2008


[ハ]=ハヤカワ文庫2003年10月31日8刷 鏡明
[学]=学研2009年7月21日第1刷 金原瑞人
原文の引用は特にことわってなければ“The last unicornROC 2008年刊
*=私のコメント

原文そのものが違っているところ


[ハ] それを聴いて、カリーは息を呑んだが、大男はそのことにこだわっていた。その夜の間というもの、シュメンドリックはそっと笑い続けていた。大きな木のところに連れていかれても、変わらなかった。そこでかれは顔を木に押しつけられ、両腕で木を抱くようにしばりつけられた。 (119P.)
[Ballantine 1969年2刷] Cully caught his breath at that, but the giant stretched around it. Schmendrick giggled gently all time that night and bore him to a great tree, where he bound him with his face to the trunk and his arms stretched around it.
[学] 赤い雄牛という言葉をきいてカリーはごくりと息をのんだが、大男ジャックは無抵抗のシュメンドリックをかつぎあげた。今日一日で二回目だ。そしてシュメンドリックを木の幹に抱きつかせるようにして縛りつけた。 (102P.)
[ROC 2008年] Cully caught his breath at that, but the giant snatched up the unresisting magician for the second time that night and bore him to a great tree, where he bound him with his face to the trunk and his arms stretched around it.


[ハ] そして、かれは、そうしようとしたのだ。 (324p.)
[Ballantine 1969年2刷] And he would have done it,
[学] 彼女はそうしようとした。 (269p.)
[ROC 2008年] And she would have done it,
*ミスプリントか。

原書に無く、学研版に加えられている文章


[学] おや、ポリーちゃん、クラッカーを食べるかい?」ルークはオウムにでも話しかけるようにハルピュイアに声をかけたが、見物人から笑い声はほとんどあがらなかった。 (38p.)
・Polly want a cracker?” Few in the crowd laughed. 

原書に在って、学研版で訳されてない文章。


[学] 「そいつは素敵だ」ルークはそういって、そっと後ずさった。「ハルピュイアがあんたの生き肝をご所望だったら、どうするんで?」
「どっちにしたって、おまえの肝を食わせてやるさ。 (43p.)
・“Oh, that’s nice,” Rukh said. He sidled away from her. “What if she only wanted your liver?” he demanded. “What would you do then?”
“Feed her yours anyway,”
[ハ] 「それはまた、素敵なことで」ルクは言った。老婆のそばからそっとさがる。「もし、あいつがあんたの生肝しかほしがらなっかたら、どうするつもりで?」ルクが詰問するように言った。「そのときには、どうするつもりですかね?」
「どちらにしろ、おまえの生肝をやるさね」 (49p.)
*このように、ビーグルはしばしば一人の人間のセリフの途中で(セリフを分けて)“誰々が言った”をはさむことがあるが、金原訳ではそれを省略して一連のセリフにしてることが鏡訳よりも多い。この場合は後のセリフも省略しているが。

原書に在って、ハヤカワ版で訳されてない文章。


[ハ] 「誰が言った?」カリーが端から端まで見回すと、つば元をゆるめられた剣が鞘の中で、乾いた音をたてた。
「あたしが言ったのよ」 (109P.)
・“Who said that?” Cully’s loosened sword clacked in its sheath as he turened from side to side. His face suddenly seemed as pale and weary as a used lemon drop.
“I did,”
[学] 「だれだ?」いったん抜きかけた剣が、カリーがきょろきょろする動きにあわせて鞘のなかでカタカタ音をたてた。カリーの顔が古くなったレモン汁のように色褪せ、冴えない表情になった。
「あたし」 (94P.)
*このHis face……lemon drop.の文章は、Ballantine版(1969)とROCの2008年版には在るが、ROCの1991年版には載っていない。鏡明が参照した版ではそうなっていたのかもしれない。


[ハ] ユニコーンは、前と同じ絶望的な恐怖、人々を逃げ腰にさせる老いることへの恐怖を感じたのだった。あの魔女は、自分でわかっていると知っていること以上のことを知っている。ユニコーンは思った。 (59p.)
・the unicorn felt the same helpless fear of growing old that set the crowd to flight, even though she knew that it was only Mommy Fortuna in the cage. She thought, The witch knows more than she knows she knows.
[学] ユニコーンは老いの恐怖にかられた。身ぶるいを抑えることができない。見物人も同じ恐怖に襲われたようだ。檻のなかにいるのはマミー・フォルトゥーナだということを自分は知っているのに、とユニコーンは思った。あの魔女は、本人が自覚している以上のことを知っているに違いない。 (51p.)


[ハ] まずシュメンドリックが、身を起こした。かれの両腕が、ルクの両肩を地面に釘づけにした。「この石頭め。 (67p.)
・Schmendrick scrambled up first, his knees nailing Rukh’s shoulders to the earth. “Barbed wire,” he gasped. “You pile of stones,
[学] シュメンドリックが上になり、両膝でルークの肩を地面に押さえつけた。「有刺鉄線がなんだって?」荒い息づかいでいう。「この役立たずの石ころ。 (58p.)


[ハ] 三人の旅人たちは悲鳴をあげた。けれども、かれらの案内人は、ひるみもせず、声も出さずに前進していく。 (205p.)
・The three travelers cried out, scrambling to keep their feet on the shouddering stairs, but their guide pressed on without faltering or speaking.
[学] 三人の旅人は悲鳴をあげ、がくがく揺れる階段を踏みしめた。しかし先頭を行く哨兵はよろめきもせず、ものもいわずにどんどん登っていく。 (172―173p.)


[ハ] 大広間は、六時のときよりも、あるいは正午のときと、ほとんど同じように暗かった。この大広間には、ただ単に、暖かさが欠けているために冷たく、光がないために薄暗い時間があった。(289p.)
・the hall was little darker than it had been at six o’clock, or noon. Yet those who lived in the castle told time by the difference in the dark. There were hours when the hall was cold simply for want of warmth and gloomy for lack of light;
[学] 大広間の暗さは六時とも正午ともさほど変わらない。それでも、城に住む生き物たちは、暗さの違いをみわけて時を知っていた。広間には、温もりがないせいで寒く、光がないせいで薄暗い時間帯があった。 (241p.)

私的短編小説二十選

「ルーシー」ウォルター・デ・ラ・メア
「スレドニ・ヴァシュター」サキ
「ルウェリンの犯罪」シオドア・スタージョン
「闘士ケイシー」リチャード・マッケナ
「ふるさと遠く」ウォルター・テヴィス
「月の蛾」ジャック・ヴァンス
「青をこころに、一、二と数えよ」コードウエィナー・スミス
「十二月の鍵」ロジャー・ゼラズニイ
「秘密の鰐について」R・A・ラファティ
バシリスクハーラン・エリスン
「海の鎖」ガードナー・ドゾア
「サンディエゴ・ライトフット・スー」トム・リーミイ
「残像」ジョン・ヴァーリィ
「老絵師の行方」マルグリット・ユルスナール
「ダヤン」ミルチャ・エリアーデ
夢十夜夏目漱石
「金の輪」小川未明
一千一秒物語稲垣足穂
「カチカチ山」太宰治
「遠近法」山尾悠子


わざとじゃないけど、ほとんどSF&幻想短編二十選になってしまった。
バシリスク」は、シャーリイ・ジャクスンの「くじ」で籤に当たった人が邪眼の持ち主だったら…という感じの話。「くじ」なみに後味が悪い。
「海の鎖」は、世界でただ一人、人類滅亡の時が迫っていることを知った少年の話。「アルジャーノン」に匹敵する泣ける傑作。
「ダヤン」は、二種類ある日本語訳は特に最後のセリフの有無が違うが、セリフが有ったほうが良いような気がする。→http://d.hatena.ne.jp/kawaikyo/20050417

私家版世界十大小説その2・SF編

他のバージョンもやってみよう。


タイタンの妖女カート・ヴォネガットJr.
『やぎ少年ジャイルズ』ジョン・バース
『エンパイア・スター』サミュエル・R・ディレーニ
ノーストリリアコードウェイナー・スミス
アルジャーノンに花束をダニエル・キイス
『氷』アンナ・カヴァン
『ハローサマー、グッドバイ』マイクル・コニイ
『キャッチワールド』クリス・ボイス
『ストーカー』A&B・ストルガツキー
吉里吉里人』井上ひさし

私家版世界十大小説


『虚無への供物』中井英夫
狂風記石川淳
指輪物語』J.R.R.トールキン
『最後のユニコーンピーター・S・ビーグル
『キャッチ=22』ジョーゼフ・ヘラー
スローターハウス5カート・ヴォネガットJr.
『シャイニング』スティーヴン・キング
『ウィンターズ・テイル』マーク・ヘルプリン
はてしない物語ミヒャエル・エンデ
百年の孤独』ガルシア=マルケス


ちなみに、2ちゃんねる文学板過去ログより
「あなたの読書遍歴におけるベスト10」
http://book.2ch.net/book/kako/1006/10063/1006303476.html