『暗い国境』エリック・アンブラー、菊池光・訳(創元推理文庫)

スパイ小説の大家エリック・アンブラーのデビュー作(1936年)。
イギリス人物理学者ヘンリイ・バーストウ教授(40歳)は仕事のし過ぎで医者から、神経衰弱になりたくなければ休養しろと命じられる。旅行先のホテルで、居合わせた兵器会社の社員からイクサニアという小国が原子爆弾(現実の原爆とは異なる超兵器)の開発に成功したと聞かされ、不安に襲われる教授。その時、誰かが置き忘れたらしい一冊の本が目に留まる。『Y機関員 コンウェイ・カラザズ』というその本には悪と戦う正義のヒーロー、コンウェイ・カラザズの大活躍が描かれていた。ああ、こんな人物が実在して、イクサニアと(イクサニアから原爆の製造法を盗もうとしている)兵器会社の野望を阻止してくれればいいのに。大戦の予感におびえながら運転していて事故をおこし、車から投げ出される教授。しばらく後、ひっくり返った車の傍で立ち上がったのは、バーストウ教授ではなくコンウェイ・カラザズだった……。


スパイ小説のパロディであり、『ドン・キホーテ』からマーク・ショア『俺はレッド・ダイアモンド』に連なる、妄想なりきり小説でもある。
大傑作ではないが、読んでいて実に楽しい大人のためのおとぎ話。カラザズの冒険に巻き込まれるアメリカ人記者の困惑ぶりが笑える。
イクサニアに行く途中の駅の売店で、主人公が「バトラーの<エレウォン>」(89p.)という本を買うが、これはたぶんサミュエル・バトラーの『エレフォン』“Erehwon”(逆から読むとNowhere)のことで、「ここから先は架空の国ですよ」という作者のサインというか、お遊びなのだろう。